《 過程 》ができるまで ②


「浪人」した。 ・・・いや、家庭の経済状況から浪人させてもらったわけだ。
浪人して分かったことがあった。
  「落ちて当たり前の学力」だったということが、、、。

模擬試験が毎月のように実施された。う~ん全然伸びない。勉強は、かな
りやっていたつもりだが全然効果がない。まったく空回りの連続だった。

ある日、あまり見ることのない両親の寝顔が視界に入ってきた。

◆「勉強しろ!」「成績表をみせろ!」「来年はうかるか!」なんていう言葉は言わず、この馬鹿息子をひたすら信じそして毎日仕事に精を出す両親。予備校へのお金も、どう工面したか聞いても、「気にすんな!」の一言。父は、定時制?の筑紫丘卒で、大学へ行けなかった。だからわたしにその想いを託し、その分いろいろと無理していたと父の友人から聞いたことがあった。◆

そのあまりにも疲れきった寝顔から自己嫌悪に陥ったのと同時に、わたしの涙腺がゆるんでしまった。     「いったい何やってんだ、俺は!」


★勉強のスタイルを変えた。「振り返る勇気」を持つことを考えた。模擬試験のやり直し。ミスしたところは必ずチェックし、次は絶対に間違えないこと。たとえ類似問題であっても。前回(昨日)予備校や自学した箇所のリチェックを怠らない。質問は必ずする。という勉強スタイルを講じたわけだ。かなりハードだった。英単語集は3冊、英文法問題集は4冊、全国の英語入試問題集(電話帳?)は半分以上、社会の資料集完全読破、社会の用語集完全読破、問題集5冊とまあ、気がついてみればこれだけ済ませていた。そのせいか、不幸にも視力が2.0から0.07まで落ちてしまった。当時、眼鏡はかけていなかった。


 
◆当時の予備校は水城学園(屋上に冠鷲があった)。英語は志賀武男先生、早稲田大学の三浦教授、成城大学の小野教授という参考書・辞書やNHK英会話でおなじみの教授たち。そして今や受験世界史ではカリスマ講師の青木先生。彼はわたしの母校での非常勤講師時代からの知り合いだったので、「青ちゃん」と呼んでは講師控え室で馬鹿言いながら遊んでくれた。とにかく当時の水城学園は英語学習において最高峰の講師陣であったことを覚えている。◆

しかし、そう簡単に成績は上がらなかった。でもそのスタイルを貫いた。そしてどうにか予備校で成績上位者として名前が貼り出されるようになり、業者テストでの成績優秀者の冊子にも名前が掲載されるようになった。私立3教科型だったが、非常に苦労した。
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学習スタイルを変えてもなお、成績が上がらないそんなとき、自分にエールを送るつもりでふと綴ったのが《過程》の詩だった。それをいつも読んで勉強し始めていた。だから、自分にとっては「経典」みたいなものかもしれない。





合格発表があった。  新  聞  を  見  た !

恥ずかしいくらい自分の名前がたくさんあった。

そして、また我が家の黒電話が、
     今度は、喜んだようにリンリンと鳴った。

p.s 長文を読んでいただき感謝している。しかし実際は、この内容以上に厳しかったように感じる。高3の偏差値42(アホたれ)から浪人して30近く上げたからである。ただし、英語と社会(政経)であり国語は恥ずかしながら62が最高。総合は60台後半だったと記憶している(浪人生レベルでだが、所詮!浪人。現役ではないのでね~)。この《過程》を書いたときの気持ちは、失敗したときは人権を無視したように誹謗・中傷され、成功したときは以前の言葉が嘘かのように賞賛される。結果しか見ない世間に対しての反論じみた想いで書いた詩であった。
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Commented by 西 at 2009-11-18 15:32 x
なるほど、自分への激励歌であり、同時に世間が自分へ向けて突き出す物差しへ対してのシュプレヒコールでもあったわけですね。わかるような気がします。
しっかし、偏差値至上主義真っ盛りの時代を戦った一人として言わせてもらえば、偏差値を30も上げるってのはあり得ないほどの数字ですね。
当時の赤司先生の血のにじむような闘いが想像できるようです。きっと富士山のように盛り上がった鉛筆ダコがあったでしょうね。
合格した時、嬉しかったでしょうね。特にご両親の嬉しさは格別だったでしょう。
by akashi-asunaro | 2009-11-17 23:50 | Comments(1)